ADHDの日課

19歳〜。苦手な日課です。ADHD(手帳は二級) 名前欅 流了リ(けやき

生きていくことに言葉をつけても。

わたしの生きていることに、はじめて言葉をつけたのは、
多分周りにいた大人だ。


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小学生の時のわたしが、

「人の役に立てる仕事がしたい」

と言ったのは担任の先生や両親が、人の役に立てと毎日のように言っていたからだった。

「頑張って生きる」、とか、「人生は楽しい」とか、「辛いことがあっても乗り越えることが大切だよ」とか、「自殺はいけない」とか、「努力は報われる」とか、
そういうことを成長の過程で言われてきた。

今は、「努力は報われないこともある」とか、「人生は苦しいものだ」、とか、「そこまで頑張ったって意味がない」とか、
そういう風な言葉に変わった。

自分の全力で手助けが出来るなら、
なんてお手頃な問題だろうなんて思いながら、
いま目の前に子供がいたら同じことわたしも言うだろう。

「人の役に立てるって素敵だよね。頑張れ、応援してる」

生きていることに言葉をつけられたと子供のときに思ったことは、
単純な小さな子供に対する教育だった。

今のそのような言葉は、教育よりも愚痴に近く、人を陥れたいという気持ちに近い。

そう思うのは単純で短絡的な、幼いわたしに対する、
教育としての決まりきった言葉の影響なのだろうか。

わたしの人生の言葉の中には、「生きたい」も「死にたい」もある。

死ぬときにどんな言葉を残しても、
なくなるのは、人生ではなく、命だ。
はじめから最後まで見えない「命というもの」は、
生き方でも、身体そのものでも、こころの中でもなく、
なくなれば派生していたものが消えるようなもの。
そして、「命というもの」そのものだけが、消えるようなもの。
「命というもの」は、ただそれだけで成立するから、
恨んでも、どこにもいないのだ。

無自覚に派生させたものを無自覚に巻き込むのだ。

生きていくことに言葉をつけても、それは「命の喪失」で瞬時に吹き飛ばされることにも気づかない程のもので、
意味や言葉はないものと等しいものだという気がする。

単純になることが正しいときがあり、
短絡的な教育が短絡的ではないことがあり、
人に嫉妬心を抱く瞬間も人生にはあって、
わたしは、それらが消えることから、安心感を得ている。

自分の愚かさや汚さが消えることに何を感じることもなく、
それでも伝えたいものや、自分の生きた証を残したいと、
作品や遺伝子を残すのは誰にでもある本能だ。

それは高尚な才能だとか偉いとか、逆にゴミくずだとか無責任だ、
と言われるけれど、
それ、ただの本能。


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欅流リ